弥生時代、この頃の様子は「漢書地理誌」に記載されていて、紀元前1世紀の日本は100くらいの小国に分かれていたらしいです。
3世紀になると、女王卑弥呼が支配する邪馬台国の存在が、魏書東夷伝倭人条に登場します。
卑弥呼はある程度の年になっても、独身で、なんと1000人の奴隷を使っていたというから驚き。巧みに呪術で人民を支配していたそうです。

239年には魏の皇帝、明帝に使いである難升米(なしめ)を送り、「親魏倭王」の称号や印綬、多くの銅鏡を与えられました。
これは魏の後ろ盾をもらって、ライバルである狗奴国を牽制しようとした狙いがあったものとみられています。
明帝は長髪のいい男だったそうですが、贈り物を送った同年に亡くなっているので、難升米が明帝に拝謁できていたかはどうやら不明です。
この時の中国は、魏・呉・蜀が争う三国時代で、朝鮮半島でも高句麗、馬韓、弁韓、辰韓などが乱立する国際色豊かな時代でした。
卑弥呼が死んだあとは、大きな墳墓を作って埋葬したといいます。
卑弥呼のあとは、壱与という13才の女性が継ぎます。卑弥呼の死後、男性が王に就きましたが、国が乱れてしまったため、女王として壱与が就任したのです。
邪馬台国には、身分秩序や税のしくみ、そして刑罰の制度があり、市場も完備されていたようです。意外と整った社会だったんですね。
一夫多妻制で(うらやましい~)、多くの人々が酒を好み、入れ墨の風習もあったようです。でも穏やかな性質で、盗みや訴訟は少なかったそうです。体に入れ墨入れてたのは、南方系の影響があったのかもしれませんね。
格好は、男子は髪を左右に分けて束ねる「みずら」という髪型で、幅の広い布を袈裟のように巻き付けていました。
一方の女性は、髪の毛を後ろで結い、布に穴をあけて頭を入れる形式の服を着ていました。父母兄弟は寝室が別だったそうで、現代のようですね。
邪馬台国はどこにあったのか。それは今も謎です。明治の末、東京帝国大学の白鳥庫吉が九州説を説き、京都帝国大学の内藤湖南が畿内説(京都などの周辺)を説きました。現在まで所在地を巡る議論は続いています。
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